'07/05/01 |
店長の好きな宝石(エメラルド) |
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今回は前回に引き続き「エメラルド」について、簡単にお話していきましょう。
- エメラルドの価値
- エメラルドの大きさ
これは、どの宝石にもいえることですが、大きさによって宝石の価値も変わってきます。当然、天然石でなかなか大きい石がないので、大きくなると価値は上がってくるのです。
- エメラルドの色目
エメラルドは緑色の宝石として知られていますが、一口に緑といっても濃い色から薄い色のエメラルドまで様々です。その中でも、緑色が濃い方が価値は高くなります。しかし、ここが難しいところで、最高級の色以上に色が濃くなってくると、今度は黒くなってきて、あまり美しくなくなってくるのです。そうすると、価値も低くなってくるのです。
- エメラルドの輝き
輝きのことを「照り」と呼びます。この照りというのを、文章で説明するのは難しいのですが、エメラルドを自然光の下で見た時、石に光が入って反射されて目に帰ってくる光と、表面から反射される光の合わさった光が「照り」であるのではないかと思われます。当然、照りのあるエメラルドは価値があります。
- エメラルドのインクルージョン(内包物)
エメラルドのインクルージョンは重要な産地を特定する手がかりとしては大いに役に立ちます。しかし、当然の事ながらインクルージョンのあまりないエメラルドの方が価値的には上がります。前回書きましたが、エメラルドの化学組成を思い出してください。エメラルドはベリリウム・アルミニウム硝酸塩「Be3Al2(SiO3)6+Cr」です。この「+Cr」がないベリリウム・アルミニウム硝酸塩は不純物を全く含まないため無色透明になります。エメラルドの色はクロムが入ることによって作り出されます。この成分は地球の地殻に存在します。しかし、ベリルは本来地殻には存在するものではないのです。ところが、長い年月をかけ、極端な地質変化により、これらの成分が出会い、高温と高圧の条件下で結晶が生成され、美しいエメラルドの結晶が作られたのです。そのような大変な条件下なため、インクルージョンもどうしても多く入ってしまうのです。
この4つの資質を兼ね備えたものが、最高級のエメラルドと評価されるのです。
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'07/04/15 |
店長の好きな宝石(エメラルド) |
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個人的には好きな宝石は結構あるのですが、その中で私が一番好きなのはエメラルドです。理由はいろいろありますが、色(緑)が好きなのでしょうね。服やネクタイなどに思わず緑を選んだりする事が多いから。その私の好きなエメラルドを少し専門的にお話しましょう。
(1)エメラルド
エメラルドの歴史は相当長く、古来の人々に愛され、好まれる宝石の一つです。古代エジプトの女王クレオパトラもエメラルドを好んで身にまとったという事です。そして、彼女は自分の名前をつけた鉱山を所有していたといいますから、エメラルドの魅力に取り付かれた一人だったのでしょう。
エメラルドは緑色をした宝石です。そういうと誤解を受けそうですが、緑色をした宝石はたくさんあります。例えば、グリーントルマリン、グリーンガーネット、グリーンサファイアなど、その他にもたくさんあります。その中でも私は思うのですが、神秘的な深みのある緑色のエメラルドは素晴らしい宝石の一つだと思います。こういう風にいうと、漠然としていて、皆様にはあまり伝わらないかもしれませんので、今度は科学的に特徴を話していきましょう。
- 科学的特長
結晶系・・・六方晶系
化学組成・・・ベリリウム・アルミニウム硝酸塩「Be3Al2(SiO3)6 +Cr」
モース硬度・・・7.5〜8
モース硬度の数値をみると硬いほうです(ダイアモンドはモース硬度10です)ちなみに、ガラスが5.5です。しかし、エメラルドは他の宝石に比べてインクルージョン(内包物)が多いため割れやすく、表面も傷がつきやすくなっています。ただ、この内包物は硬度を下げるばかりの悪役だけでなく、その内包物によって産地を見分ける手段になるため、エメラルドは他の宝石よりも産地の特定が容易なのです。ベリルに属する宝石のうち、クロム着色によって緑色を示した石がエメラルドと呼ばれます。同じベリルであっても、鉄などの他の原子と結合して着色されたものはグリーン・ベゼルと呼ばれエメラルドと呼びません。ちなみにピンクの色をしたベリルをモルガナイト、黄色の色をしたものをヘリオドール、そして皆さんもよくご存知の宝石である海水青色のベリルをアクワマリンと呼ぶのです。
次回は、もう少し私の好きなエメラルドについて魅力に迫ってみようと思います。
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'07/03/31 |
着物について(4) |
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帯編(2)
- 袋帯について
袋帯の原型というのが「丸帯」になります。この丸帯は二つ折りにして帯芯を入れて仕上げます。このため表地や裏地というのがなく、両面ともに同じ柄がある帯になるわけです。という事は、当然豪華な帯になりますが、重くて締めにくいという欠点になってしまうのです。その点、袋帯は明治時代につくられたもので、表面に出ない部分は、模様をつけず無地で縫い上げるため、丸帯に比べて安価にできるというのと、軽いという利点があるのです。そのため現在では丸帯に代わって礼装用や準礼装用として使っているのです。長さは基本的には、約一丈一尺(約4m20p)で幅は約八寸2分(約31p)になっています。
- 名古屋帯について
大正時代に名古屋の女学校の先生が、この帯を考案した事から、名古屋帯と呼ばれるようになったそうです。この名古屋帯は幅広い範囲で使われるようになった帯で、背部の結び部分だけを一幅(鯨尺八寸ないし九寸)として、巻き付ける部分を半幅に縫い合わせて仕立てができます。考えてみましたら、普通の合わせ帯が表地、裏地各鯨一丈を使うのに対して、一丈二尺で裏無しでできるので、安価である事と、着用が比較的簡単にできるという事があります。基本的な長さとしましては、約一丈二尺二寸(約4m63p)で幅は九寸(約34p)です。
名古屋帯の仕立てというのは三種類あります。その中でも一番ポピュラーな仕立てが「名古屋仕立て」というもので、手先から胴の部分をすべて半幅に仕立てをして、着付けなどの時に楽に締まられるという利点があるためなのです。その他には「松葉仕立て」「額縁仕立て」などの仕立ての方法があります。
- 半幅帯
「半幅帯」なんていうから分からなくなるのですが、浴衣などに使われる帯がこの「半幅帯」なのです。普通の帯幅の半分に仕立てあがった帯を総称して「半幅帯」といいます。帯揚げや帯締め、帯枕なども必要なく楽に締められるという利点があります。また、帯の結び方も豊富にあり気軽に楽しめる帯でもあるのです。
4話にわたって話してきました「着物について」ですが、少しは着物に興味が出てきましたか。伝統的な着物は、現代の日本の生活スタイルにはそぐわなくなってきました。理由として一番にあげられるのは、一人で着付けができない人が多い事です。しかしながら、反対にこの伝統的な着物はアンティークの生地を小物などに利用したりして、現在のアンティークブームにのり見直されているのです。質屋の目から見て、質草としては伝統的な着物(大島紬や結城紬などなど)に関しては、着ていない仕付け糸がかかった着物に関しては充分取り扱える商品ですが、現在着物ブームにのっとった商品は質草としては難しいかもしれません。この着物に対して太田質店では力をいれ、日々の勉強により、より高くお預かり、また買取して行きたいと考えております。
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'07/03/15 |
着物について(3) |
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帯編(1)
今回は帯について簡単にお話してみましょう。帯というのは着物の印象を決めるのに大変重要な役割があります。そのため、帯を代えることによってぜんぜん違う着物姿になってきたりするのです。
帯は中世までは紐(ひも)または紐状の細いものを帯といい、男女の別なく衣服の上から体に巻き、一重回し前結びとしたのです。江戸時代に入り丈も長くなり、幅も広くなり前結びでは動作に不便なため後ろ結びとなったのです。現在の帯には、特に女帯は和装の総合美を構成する上から重要な役割を持ち、実用より趣味を重きにおかれ、時風模様などにも非常に精巧なものができるようになったのです。女帯には丸帯、袋帯、名古屋帯、袋名古屋帯などがあります。男帯には兵児帯や各帯や三尺帯などがあります。
ところで、着物にも染めと織りがあるように、帯にも染めと織りがあります。以前にお話したように、一般的に着物の場合、染めは礼装や準礼装で、織りはお洒落着や普段着になります。しかし、帯の場合、一般的にはその反対になります。織り帯が礼装や準礼装に、染め帯はお洒落帯になるのです。ただ最近では、粋な感じがあるため、当初は、花柳界などで流行しましたが、最近は一般的になり袋帯や名古屋帯、袋名古屋帯などにも使われるようになったのです。
次回、袋帯、名古屋帯など女帯について少し詳しくお話してみましょう。
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'07/03/01 |
着物について(2) |
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どうして、最近は着物が着られなくなってきたかというと、やっぱり着る機会が少なくなってきたというのが一番ですが、そのため着物の着方が分からない人たちが多くなってきました。また、着物の帯の結び方などどうしても専門の人に結んでもらわないといけなかったり、また着付け教室などに行って習ってからでないとできないというのが、現在の日本人が着物から遠ざかってきた理由の一つではないでしょうか。しかし、日本の伝統的な着物は絶対にといってよいほどなくならないと思います。我々質屋もそれを肝に銘じ、今のスタイルにあった着物の価値を見出して頑張った市場の相場をつけていかないといけないのでしょう。
- 色無地
紋綸子などの地紋のある生地に、黒以外の色を一色染めした着物をいいます。地織りがありますが柄はつけられていません。卒業式などに袴と合わせたり、お宮参り、お茶席など、ちょっとしたお出かけに着用できます。他の着物と比べて幅広く着られるので、結構持っている方が多いのではないでしょうか。また、お茶やお花の稽古事に色無地の着物を着る事が結構多いのです。
紋の数によって格式が違ってくるのが無地の着物です。紋のない色無地も遊び感覚で着られます。お茶席に着用する時は紋をつけるのが一般的で三つ紋が正式な着物になります。三つ紋をつけた無地の着物は無紋の訪問着よりも格式が上の準礼装になるのです。
- 喪服
黒喪服と色喪服があり、黒喪服は日向五つ紋付の黒無地の着物で、未婚、既婚を問わず喪の第一礼装になります。昔は服喪の期間中を通して着用していましたが、今は葬礼、法事などだけに使用します。色は黒が普通ですが、浅黄や紫色も見られます。羽二重か縮緬で五つ紋付が正装であります。現在の喪服の相場の状況としましては、着る人が少ないということもあり、ほとんど相場がないというのが現状です。寂しい限りですね。
- 小紋
着物全体に繰り返し模様が描かれていて、型染めや手書きの着物をいいます。一方的に柄を繰り返している着物で、全体の模様を見たら上下が分からないものになっています。小紋は、訪問着や付け下げを着ていくほどではないが、ちょっとおしゃれをしたい時など、例えば、初詣、クラス会、誕生日会、お稽古、ショッピングなどに着ていくことができる着物です。
- 紬
普通は、糸の状態で染めてから反物にする「先染め」の着物が一般的で、訪問着や小紋のように白生地に模様を染めたものではなく、色糸で織り柄になっています。中には絹糸を染めずに反物にした後で染めた「後染め」の紬もあります。紬の多くは養蚕農家が商品化できない繭糸(まゆいと)を使って織ったことから普段着とされてきました。
しかし、現在では、その伝統技術が高く評価されるようになり、紬は普段着からお洒落着や社交着としても着られるようになったのです。代表的な紬には茨城県と栃木県の境にある結城地方で生産されている (1)結城紬です。また鹿児島県奄美大島で生産されている泥染めで有名な (2)本場大島紬です。新潟県塩沢地方で生産されているお召し風の紬絣の (3)塩沢紬。山形県米沢地方で織られる (4)米沢紬。石川県の指定無形文化財に指定される大変貴重な (5)牛首紬などがあります。
- 浴衣
お祭りなどに行く格好といえば、誰でも思い浮かべるのが浴衣姿ではないでしょうか。昔は身分の高い人たちが入浴時の衣として誕生したといわれています。語源は湯帷子(ゆかたびら)から来たといわれています。誕生当時は麻製のものが多く、江戸時代頃には木綿が多く使われていました。現在では浴衣を手軽に取り扱えるように、ポリエステル素材を利用したり、柄も動物や花火など、またまたキャラクター物まであり、こういったデザインで手軽に多くの人が楽しめるようになりました。結構毎年着られる人が多いので、浴衣の相場があったりするものです。
次回は着物の帯について簡単にお話いたします。
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'07/02/15 |
着物について(1) |
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以前このコーナーでお話しました「着物について」ですが、久しぶりに日本の伝統的な着物について、現在太田質店での取り扱い状況についてお話して見ましょう。
今や日本人は結婚式にも洋服で、そして、不幸があった葬式には黒い洋服でと、日本の伝統では、少し前までは着物を着て参加した大切な行事にも着物を着なくなってきました。太田質店のように昔に比べて多くはないですが、取り扱いのあるお店からしますと凄く残念な、というか寂しい事です。その中でも、比較的価値が付けやすいものを選んで、少し説明してみましょう。
(1)着物の種類
- 留袖
留袖には黒留袖と色留袖に分けられます。黒留袖は既婚女性の第一礼装です。黒地の着物の背中心、両胸、両外袖の五ヶ所に日向紋を染め抜き、裾(すそ)に縫い目で模様の途切れない絵羽模様を描いた着物です。結婚式の場で新郎新婦の母親、仲人夫人、親族の既婚女性などが着用する着物になります。
また、色留袖は未婚女性の第一礼装です。五つ紋付なら黒留袖と同格になります。三つ紋や一つ紋なら、準礼装の着物となり、最近は昔に比べてそんなにこだわらなくなってきたみたいです。色留袖は広範囲に着る事ができ、結婚披露宴の出席、格式ある茶会、パーティーなどが主に着られるところではないでしょうか。
- 振袖
未婚女性の第一礼装となる着物です。第一礼装の場合は、五つ紋をつけるのが基本となりますが、振袖の場合は三つ紋、一つ紋、無紋でも差支えがありません。振袖は大人用長着の袖の長い物をいいます。もっぱら若い女性の盛装用に限って用いられるのです。総模様、裾模様など華美なもので「友禅染」「絞り染」「刺繍」などの技法が用いられる。袖の長さは一定しないが大体1メートル内外で着用者の身丈に応じて加減されるのです。鯨二尺以上(76cm)〜二尺七寸(1m)までを「中振袖」といい、従来の袖丈(125cm)を大振袖ともいい、袖の長い方振袖は格式が高いとされています。
- 訪問着
女性の社交用和服。また準礼服として特に未婚女性は結婚披露などの招待に際し着用する事が多い。未婚既婚を問わず着られる着物で、振袖や留袖の次に格が高いのです。明治時代に名づけられ、三つ紋をつけていましたが、現在では、一つ紋にしたり、紋を省略する事も多くなってきました。披露宴やパーティー、見合い、結納、茶会など多くの社交的な場に着ていくことのできる着物です。訪問着の文様は、絵羽織模様で肩、袖、裾または全体に文様をおいたものなど様々あるのです。
- 付け下げ
未婚、既婚を問わず着られ、準礼装に近い着物です。紋が入るとさらに格が上がりますが、紋が入ると街着としてはふさわしくありません。付け下げは胸、肩、袖、身頃の模様が上向きになっているのが特徴です。そして、訪問着の代わりに着られる社交用の着物で、来ていける場所は、披露宴、年賀、初釜、表彰式、パーティーなど、訪問着とほとんど変わらないのです。
まだまだ着物の種類はあるのですが、今回はこの位にして、また次回にしたいと思います。
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'07/01/30 |
宝石発見にまつわるエピソード(4) |
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前回「呪いの伝説」でお話しましたブルーダイヤモンドは別称「ホープ・ダイヤモンド」とも呼ばれます。これは前回お話した時のヘンリー・ホープが所有した事からそういう風に言われるようになったのです。その後の「ホープ・ダイヤモンド」についてお話しましょう。
1901年 |
フランシス・ホープが破産してから夫人のメイは、そのダイヤを29000ポンドでロンドンの宝石商アドルフ・ウィルに売却し、さらにアドルフ・ウィルはアメリカの宝石商サイモン・フランケルに14万1032ドルで売却する。
ここで「呪いの伝説」では、ホープ家の崩壊後、フランス人のブローカーが購入するが発狂した挙句自殺するとか、ギリシャ人のブローカーの手に渡るが自動車事故で家族全員が死亡するとかいろいろな呪いによる伝説がありますが、ほとんどが事実でないとの事です。
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1908年 |
フランケルがパリのソロモン・ハビブに売却する。 |
1909年 |
ハビブが債務弁済のために売り出し、宝石商のローズナウに約8万ドルで落札された。
少し安くなりましたね。
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1910年 |
ローズナウがこの「ホープ・ダイヤモンド」を55万フランでピエール・カルティエに売却する。
ようやく、ここで私の知っている人物カルティエが出てきます。
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1911年 |
カルティエが装飾をし直して、アメリカの社交界のエヴェリン・ウォルシュ・マクリーンに売却する。
ここで「呪いの伝説」によると9歳の息子が車にはねられて死亡した。しかも、娘は睡眠薬で自殺ですって。これも、「ホープ・ダイヤモンド」の呪いだという事です。
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1947年 |
マクリーン死去(61歳)。彼女は相続人に自分の孫の将来を考えて今後20年間売却しないように遺言する。
ここで「呪いの伝説」では「マクリーンは教会で祈祷させたが一族全員が死に絶えた」とされるが、孫がいる事でも分かるように事実ではありません。
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1949年 |
マクリーン死去後に債務弁済の為、許可を得てダイヤモンド商であったハリー・ウィンストンに売却する。
そして、ハリー・ウィンストンは10年ほど個人コレクションとして所有していたが、その後にスミソニアン協会に寄贈されたのです。そして、今ではスミソニアン国立自然史博物館に所蔵されているのです。
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そもそも、この「呪い」という話は、1909年にロンドン・タイムズにおいて、パリ
の通信員が「悲惨な最期を遂げた」とする架空の所有者を多数含んだ記事を載せたのが最初だとされています。さらに、伝説を拡大したのが、フランシス・ホープと離婚したメイ・
ヨーヘだったのです。メイ・ヨーヘは15章からなる本を他の執筆者の協力を得て、その
中にさらに架空の登場人物を加えたのです。ついには自分の書いた本をベースに映画を作
らせ、それにフランシス・ホープの夫人役で主演し、ここでも話を誇張して人物の追加を
しているのです。メイは映画の宣伝と自分のイメージアップのためだったのではないかと
いわれているのです。この「呪いの伝説」によって振り回された人は、数多くいたのでは
ないでしょうか。それにしましても、ハリー・ウィンストンはこの「呪いの伝説」の話を
まったく信用しないで、反対にジョークのネタにしていたというのには度胸があるという
のか驚かされます。
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'07/01/09 |
宝石発見にまつわるエピソード(3) |
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「青いダイヤモンドの呪い」という話を皆さんは聞いた事があるでしょうか。この話は、昔からある(1600年代)大きいブルーのダイヤモンドの所有者になった人たちやそのダイヤモンドにかかわった人たちが不幸に見舞われる事を誇張した物語りのような話です。本当はダイヤモンドがこのような「呪い」なるものがあるとは思われず、脚色や想像上のものであります。しかし、面白い話なので、少しお話しましょう。
1661年 |
フランス人の「ジャン・バティスト・ダヴェルニエ」がダイヤモンドを購入します。 |
1668年 |
フランスの王のルイ14世がダヴェルニエから購入。その時にダイヤモンドの石目は112.50カラットだった。それをルイ14世がカッティングしてハート型にカットさせ、その時の石目が69.03キャラットです。このため、もう一つダイヤモンドがあるのではないかと思われたそうです。このときに「王冠のブルーダイヤ」とか「フランスの青」または「ダヴェルニエ・ブルー」などさまざまな別称がつけられています。
このときの「呪いの伝説」ではヒンドゥー教の置かれた女神シータの彫像の目に嵌められていた2つのうち1つを盗み、それに気が付いた僧侶があらゆる持ち主に呪いをかけたとされています。また、ダヴェルニエは直後に熱病で死んだとか狼に食べられて死んだという伝説になっているのです。
ルイ14世の時にフランス経済が停滞し始め、フランス革命の原因になっているのですが、これもまた「呪われた伝説の一つ」になっているのです。
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1749年 |
ダイヤを受け継いだルイ16世は金羊毛騎士団用ペンダントに付け直したのです。「呪いの伝説」ではルイ16世の王妃であるマリー・アントワネットとルイ16世は、そろってフランス革命で処刑されたのです。 |
1792年 |
6人の窃盗団が王室の宝玉庫に侵入して、ダイヤを含む宝石類を強奪するのです。出所を不明にするためにカッティングをしてアムステルダムの宝石店に売り飛ばしたのです。 「呪いの伝説」では宝石商の息子がダイヤを横領して、宝石商はそのショックで死んでしまいます。盗んだ息子も自殺してしまうというものです。
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1812年 |
イギリスのダイヤモンド商ダニエル・エリアーソンがダイヤを所有していたという記録が残っています。 |
1824年 |
ヘンリー・フィリップ・ホープが宝石のコレクションとして収集したというのが記録されています。 |
1839年 |
ヘンリー・フィリップ・ホープが死去。以後2人の甥が10年以上にわたってダイヤの所有権を裁判で争うのですが、その結果、ヘンリー・ホープがダイヤの相続人になるのです。 |
1851年 |
ロンドン万博と1855年のパリ万博にダイヤを展示したのです。 |
1862年 |
ヘンリー・ホープが死去。未亡人のアデレーが宝石を引き継いだのです。 ここで「呪いの伝説」ではヘンリー・ホープは生涯独身だったというふうになっていますが、これは事実ではないのです。
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1884年 |
未亡人のアデレー死去。 |
1887年 |
ヘンリーとアデレーの孫であるヘンリー・フランシス・ホープがダイヤを相続する。 |
1894年 |
フランシス・ホープはアメリカ人のメイ・ヨーヘと結婚して、メイはそのダイヤをつけて社交界の集まりなどで身につけているのです。 |
1896年 |
フランシス・ホープは破産をしてしまうのです。 |
このように、「呪われたダイヤモンド」という作られた話は、伝説として作り続けながら現在まで行くのですが、第一話はこの辺にしておきます。
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'06/12/15 |
宝石発見にまつわるエピソード(2) |
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現在においても、南アフリカはダイアモンドの産出国としては名高く、5大ダイアモンド鉱山が発展しています。このダイアモンドの中心都市として世界中の注目を集めた発見の物語があります。
南アフリカのオレンジ川岸に近いホープタウン町の、家の近くで遊んでいる貧しいボーア人の農夫の子ヤコブは、輝く小石を拾い上げ、家に持ち帰って玩具としていたのです。それがそんなに価値のある宝石とはぜんぜん気が付かない母親は、それを隣人の求めに応じて進呈してしまったのです。現在まさかダイアモンドの原石が落ちているなんて思う人はいないでしょうね。私でも親しい人にせがまれたらあげてしまうかもわかりませんね。その隣人も、わずかな金額で、その石を人手に渡してしまったのです。その石は、グラハムスタウンの地質学者アーサーストン博士によって、21.25キャラットのダイアモンドである事が証明されたのです。それは今から約100年前の1866年の事でした。
この石は「ユーカレ」("しめた"という意味)と名づけられて、イギリス総督府に500ポンドで買い上げられた。この石が南アフリカの宝庫を開ける鍵になったのは確かなのです。その後、現在のように南アフリカではダイアモンド他、宝石が次々と産出されていったのです。 (近山晶氏著の宝石参照)
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'06/12/01 |
宝石発見にまつわるエピソード(1) |
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宝石はいろいろな国で採掘されます。その最初の宝石の発見というのは、まったくの偶然というのが多いのです。その数々の有名な発見の発端となった話題を何点かお話いたしましょう。
18世紀のブラジル、内陸の中部高原に砂金を求めて群がるガリンペイロ(山師)がいました。その彼らの唯一の娯楽というのがキャンプの焚火を囲んでのカード賭博に興じる事でした。彼らの掛け金の計算の為に「数とり石」として、焚火に輝く小さな小石を用いていました。その彼らの小袋に納められたそれらの小石が、ガリンペイロたちに生涯かけて、川の中に腰までつかって根気よく選り分けられた砂金よりはるかに価値のあるものであることは、まったく知らなかったのです。このキラキラか輝く「数とり石」が宝石として認められ、当時のダイアモンドの輸出港のインドのゴアに送られ、ポルトガルのリスボンの取引所に現れたのは1728年の事であったのです。この地域のみなす・ジェライス集が、砂金のみではなく、ダイアモンドに混じって、各種宝石の産地として世界の注目を浴びる発端となったのです。そして今なお、ダイアモンド原石を供給しつづけている有名なディアマンチナの町が、ここに誕生したのです。このように、昔は何気なく使っていたり、子供が偶然見つけたりしたものが、現在ではとんでもなくすごい宝石だったりという事があるのです。 (近山晶著の宝石参照)
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